作曲家「藤井郷子」


私が今更言うまでも無く、作曲家としても既に名高いのだが、敢えて言うならジャズにアドリブがある以上、プレイヤーは皆作曲家であるとも言えよう。
ならば“作曲家”と名が付くには何が違うかと、一言で言うと再現性の存在だと思うわけで、アドリブはその演奏者がその場限りで消えていく曲を瞬時に作曲したものであり、いつも同じアドリブであれば、それはテーマの一部分を作曲したのであってアドリブではないのである。
更にはアドリブは曲の一部であるから完結しなくても構わないのに対し、1曲作るということは起承転結、最初から最後までを面倒みなくてはならない。
この最初から最後までを、自分であるか他者であるか、それとも一緒にかは別にして、はたまた演奏の都度、微妙に変化することを含んでも、幾度も再現出来るものを作るのが“作曲家”なのではないだろうか。
もちろん、譜面の上で完璧に作り上げておいてそれを再現しても、部分的に出来あがっているものを現場でつなぎ合わせても、その場で1から作ってしまっても、初めて聴くものにとって違いが判ろうはずがない。
再現性を作曲の根底にするなら譜面に残す必要性は無いとも言えるのである。
しかしながら藤井郷子は譜面を書く。ライブの様子を見る限りでは、かなりしっかりと書きこまれた譜面のようである。対照的にオーケストラの演奏の際、時折指揮台に立つ田村夏樹の譜面は藤井郷子に比べるとまるでメモのようにすら見える。
ジャズという即興性の強い音楽をやっているにしては珍しいと感じる向きもあるかもしれないが、これが藤井郷子の作曲スタイルなのだと確信している。
例えば、音を出すという行為を話し言葉だとすると、譜面に書く行為は書き言葉にあたる。
書くという行為は言葉を選び、推考することに他ならない。前を行く友人を呼び止めるのに「おい」でも「よお」でも「ちょと」でも良いわけだが、考えなしに呼び止めて振り返った友人を見て驚くのか、笑顔で振り向いてもらおうと考えて言葉を選ぶのかは結果に大きな差が出てくる。
もちろんいつも思いどおりになるわけではないだろうが、同じように笑顔で振り向いてもらおうと考えて声をかけるのにも、経験と直感から瞬時に言葉を決めるのか、じっくりと時間をかけて言葉を選ぶのかも違う。
また、話すという行為は、その場の成り行きに影響を受けやすく、当初の思惑どうりに事が運ばないことも多い。言いたい事が言えないままに誤解されてしまうことだって少なくないのである。
では、しっかりと書きこまれた譜面は、いつでも思ったとおりの音を再現できるのかというと、そんなに単純な話ではない。決められた同じ言葉を発しても、人によって声の質、大きさ、アクセントなど聞く者の印象を変える要素はいくつかあるわけで、同じ小説でも朗読する人が違えば印象が変わるのと同じ事が起きるからだ。

個人的に藤井郷子は、このしっかりと考え書きこんだ小説を他人に読ませ、解釈による変化と、自分も含めた体調や気候などの外的要因による変化を楽しみつつ、即興を絡めて全体を掌握、まとめあげながら演奏を作り上げているのではなかろうか。と、そう睨んでいたのだが、1度本人にさりげなく聞いてみたところ「そんなに深く考えてませんよ」と、サラリとかわされてしまった。

というような脈絡の無い長い前置きで何が言いたかったかというと、演奏に至るまでの方法に、良い悪い。あるいは正しい正しくない。といった一般論は存在せず、単なるスタイルの違いでしかない。ということであり、私の耳に届いてくる藤井郷子の曲はとても美しい。という、ただそれだけのことだったりする。
(2004/03/27)


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