演奏家「藤井郷子」
段々と物言いが乱暴になっていくようだが、単なるピアノ弾き。という観点では評価しない。
もちろん腕が悪いとか言うのでは無くて、他人のバンドではもの足らないだろうと思うからだ。曲を書き、バンドの中心で支配力を示してこそ藤井郷子のピアノは生きる。というのが私の持論なのである。
もっとも、他人のバンドで弾くことは少ない。田村夏樹のバンドを除けば沖至ユニットしかCDになっていなかった。先日ローヴァ・サキソフォン・カルテットとの合作?のようなCDも出たが、まったくの客演とも言い難く、そのような少ない録音の中で結論を出そうというのだから性急なのかもしれないが、それでも私は確信している。
ディスコグラフィにも書いたし、沖至ユニットばかり引き合いに出して申し訳ないが、2枚のCDを聴き、名古屋で沖至ユニットのライブを観て感じたのは、「あそこでピアノ弾いてるのが藤井郷子でなくてもあまり変わらないだろうなぁ」というのと、一転して曲が藤井郷子のオリジナルになった途端、ピン!と緊張感のある演奏に様変わりして「藤井郷子のバンドのようだ」という。相反するものであった。
ひょっとすると、控え目で遠慮しいなのかもしれない。他人のバンドでは1歩引いて、おとなしく合わせてしまうのではなかろうか。などとも考えてみたりする。
ソロや田村夏樹とのデュオなど即興を重視した演奏も多いが、即興もまた作曲であるという観点で観れば、藤井郷子の世界そのままであると言える。一方でオーケストラの演奏において藤井郷子がピアノを弾いていなくても、ちゃんと藤井郷子の世界になっていることを考えると、ピアノであろうが人であろうが、藤井郷子が己れの音楽を表現するための一手段に過ない。ということになる。何故なら人を手段として使う為には譜面の存在が大変有効だからだ。曲を書き、指揮をするということは、つまり一人でいくつもの楽器を同時に演奏することに他ならない。
もちろん、それは基本的な理屈であって実際に演奏するのとは違うが、主導権が藤井郷子にある以上、他人が演奏することは、曲に多様性を持たせ良い効果を生み出す事にはなっても、その逆は考えられない。
こう考えて、よくよく振り返ってみれば、私が藤井郷子を気に入ったのは藤井郷子のピアノ演奏ではなく、作り出す音楽そのものであり、その意味で最初に“おっ”と思ったのがオーケストラのCDであったことも納得が行く話なのだ。
もちろん、本人にその気があるか無いかは知らないが、作曲と演奏が切り離せない藤井郷子は、何処まで演奏の主導権を握っているかが重要だ。ということにしておこう。
(2004/04/08)
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