生再考
やっぱりというか、当然というか、2004年のトリオツアーが終わったところで、藤井郷子トリオについて認識を新たにした。
演奏の様子を見ていて思ったのが「このトリオは、まるでデュオ+1」であるということだ。何故なら時々、濃厚な藤井郷子とマーク・ドレッサーのデュオにジム・ブラックが上手く合わせているように見えてしまったからである。根が真面目なマーク・ドレッサーは常に藤井郷子の様子を伺い、アイコンタクトで会話しながら演奏しているのだが、ジム・ブラックときたら、その2人を見るでもなく感覚だけで合わせているようにしか見えない。
真面目で一途なマークと器用で直感的なジムとの違いなのかもしれないが、今までCDで何度も音を聴いて来ているにも係わらず、そんな風に思った事は一度も無かった。まさに「見ると聞くとでは大違い」である(笑)
いや「トリオについて」というのは正確では無いかもしれない。カルテットの時でもそうだったが、トリオというワンセットでの認識にプラスして、マーク・ドレッサーとジム・ブラックという個々の演奏者について新たな認識が加わったというべきであろう。
この2人については、既にある程度の知識があった。カルテットの時は、生を体験するまで名前を忘れてた感があったから認識を新たにしても全然不思議は無いのだが、トリオの2人は既によく知った名前であり、参加しているCDも何枚か持っていたから「あの2人の演奏を生で聴ける」という期待に胸膨らむところこそあれ、それ以上を誘ってくれるとは正直考えていなかったのである。げに恐ろしきは生の魔力であって、マーク・ドレッサーのベースが、あんなに力強く迫力満点に迫って来るとは思っていなかったし、ジム・ブラックのドラムが、あんなにしなやかで艶やかな音色を出すとは考えてもみなかった。
もう少し詳しく言おう。素晴らしいベーシストであるなんてことはCDを聴けばすぐわかる話なのでくどい解説はしないが、あの7月24日、高山で初めて演奏しているところを目の当たりにし、その音を聴いた時の驚愕は、ちょっと忘れる事ができない。高山ではPAを使わなかったから余計だったのかもしれないが、あれはあの場に居て同じような感覚を抱いたものだけが共有出来る驚愕であって、説明することは不可能だと言う気がする。
それから、ドラムという楽器が様々な音を紡ぎだす様は、まさに「百聞は一見にしかず」という言葉を思いだした程で、CDだけ聴いていては、例えばシンバル1枚があれほど色々な音を出すところなぞ、理屈ではわかっているつもりでも想像出来なかったのである。
今回のツアーでは6日間の演奏があったわけだが、私はそのうちの3日、高山、名古屋、東京を聴いている。演奏した曲順など多少の違いはあるにしろ、3日間連続して同じ曲を演奏しても演奏結果は3日間とも違うわけで、それは当たり前といえば当たり前なんだけど、CDを繰り返し聴いている時には少し忘れがちな感覚であるし、生も初めてだったり、あまりにも間が開いたりすると、たった1回の経験を全ての生を代表するかのように勘違いしてしまいがちなので大変意義のある3日間であった。
演奏結果というのは毎回違うものなのだと頭で理解しているのと体験するのとでは、やはり別ものなのである。録音だけ追っていると、同じ曲の違う演奏をなかなか聴けないのだと言う事に以外と気付いていなかったりする。
さてと、話は益々まわりくどくなるが、つまり私はライブを聴きに行った報告を書きたいのではなく、生と録音の違いについて書きたいわけである。「藤井郷子論」からは少し外れているかもしれないが、目の前で演奏しているという事実、つまり「視覚」の刺激以外に何が違うのであろうか。
私は常々「生だと録音に入りきらない音が聞こえる」と考えていて、それが先程のような感想にも結び付いているわけなのだが、初めて聴く人にとってはどうなのだろう?と思ったりもするわけだ。
「視覚」という要素を取りさった場合、聴いている音楽が今まさに演奏されている「生」であるのか、録音されたものを再生しているのかの相違点は以外に少ない。
もちろん、録音物の再生には再生環境が大きく物を言うわけだし、その少ない相違点が影響力を持っているのだという話もあろうが、この際そういう細かな事には拘らず考えてみると「初めて聴く」というのは「聞こえて来たものがすべて」であるということだ。違いというのは比べる対象があって初めて成り立つ事柄であって、くどいようだが「初めて」の場合は聞こえて来たものが好きか嫌いかしか無いのである。
いや、初めてでなくとも「音」だけを取りだして考えたら「違う」ということはわかっても「確実に生である」と言えるような材料は無い。結局は、その時聴いた「音楽」が好きか嫌いかに集約されてしまうであろう。
そうそう、「ビデオなら視覚にも刺激があるぞ」なんて突っ込みはやめて欲しい。見えなければ生と録音が同じ物である。なんて話をしているのでは無いので念のため(笑)
つまるところ、生と録音の違いは「聞き手の気持ちの違い」である。
視覚というのは1つの象徴であって、見えているという事で「たった今、目の前で音楽が生まれている」という場に立ち合っていると認識し易くなるし、わざわざ出かけて来たことや、座った場所が良くて喜んだり、逆に場所が悪くて悲しんだり、憧れの演奏者を目の当たりにして興奮したりという様々な要素があって、更に自分と同じような人間が廻りに居て「生を聴いているという場」を構成していたりするので、その雰囲気が気持ちに変化をもたらすというわけだ。
考えてみれば、同じCDを聴くのだって聴く姿勢が変われば印象は変わるわけだから、随分と「演奏」に関係の無いところで評価をされてしまう「演奏家」というのは可愛そうな気がしないでもない。しかし、そういった直接関係なさそうな要素も取り込んで「音楽」は成り立ち存在しているわけで、成る程、いつまで経っても飽きないはずである。
そんなわけで、文字にしてしまうと「そんなの当たり前だ」と言いたくなるような話であるが、これを体験するのと体験しないのは結構な違いであって、だからやっぱしCDも買わなきゃ。ライヴにも行かなきゃ。あーお金が足りないわね。ということになるのであった。
(2004/08/28)
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